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西洋目薬 |
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● 岸田吟香の精奇水
明治8年(1875年)に吟香が配布した「目薬精奇水功験書」によると、元治元年(1864年)
4月、彼は眼を病み、ヘボンの治療を受けた。それがきっかけで助手となり、「和英語林集成」
の出版を手伝うことになったのであった。
『東京日日新聞』明治8年10月23日号に吟香が書いた記事によると、彼がヘボンから製法を伝授された
精奇水を売り出したのは、慶応2年(1866年)のことであった。
『横浜毎日新聞』明治4年8月18日号に「蒸気船屋岸田銀次」の名で「御めぐすり」の広告が出ている。
8年春、東京へ転勤、秋には銀座2丁目日報社隣に「煉瓦石屋」の店舗を設け、本格的に販売するようになる。
これが楽善屋である。
『新潟新聞』10年4月7日号に、「道々目を驚かしたるは、小学校の公舎と岸田氏の精奇水に守田氏が
丹の招牌なり。到る所として少しく村落の形状をなせば必ず此れ三つを見ざるなく、其文物の盛んなると目薬に宝丹の流行は、
予も思いの外に出て誠に魄消したり」という記事が出ている。
また、『読売新聞』同年11月1日号に、西南戦争に出征した兵士の間で、「美女をさして精奇水」と叫ぶ「目の薬
だという隠し言葉」が流行しているという記事がある。精奇水がいかに広く普及していたかがわかる。
吟香は上海にも支店を設け、外国からの注文も多かったという。
● 平文の目薬
ヘボンのもとで長らくコックとして働いた人に牧野灸七がいる。『横浜市史稿』によると、
明治25年(1892年)、ヘボンは帰国に際して灸七の労に報い、また養老の資とすべく、
点眼水の調合法を伝授した。
同書に収録されている「平文の目薬由来」によると、28年2月、南吉田町の里見松泉堂がその販売を始め、
大正4年(1915年)には新薬を加えて改良した。
参考文献、写真左上「楽善堂の錦絵広告」永濯画。右手の掛軸が精奇水の広告。
写真右下「牧野 七」牧野正氏蔵
横浜開港資料館編集「横浜もののはじめ考」より
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