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居留地消防隊 |
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● ボランティア・ファイア・ブリゲード
ブラックの「ヤング・ジャパン」1864年(元治元年)2月23日の条に
次のような記述がある。
2月23日、居留地の中心にあるJ・アルマンド・ジュニア商会の屋敷で火事が
起った。キングドン、メイン、ヘクト各氏の消防車がただちに現場にかけつけたが、
水の出が少なく、消防車はほとんど役に立たなかった。
消防団が間もなく完全に組織され、寄付金がおびただしく増加し、
三台の立派な消防車が本国へ注文された。それは全部到着し、
続いて、さらに数台来たが、水の供給は今日(1880年)にいたるまで、ほんのわずか
改良されたにすぎない。
消防団の組織化は、実は前年1863年末、12月22日のクニフラー商会の火事が契機であった。
翌1864年1月1日、J・C・フレーザーの招集によりS・J・ガワー宅で最初の会合がもたれ、
フレーザー、ガワー、E・ピケ、W・C・クラーク、J・ハドソンから成るボランティア・ファイアー
ブリゲード委員会が組織された。(1864年1月16日)
これが居留地消防隊の創始とみることができる。もちろん、それ以前にヘフトらは個人で消防車を所有し、
消火にあたっていた。2月4日の会合ではO・E・フリーマンが初代消防隊長に就任し、「本国に注文」
された3台の消防車は1864年末に到着し、ロス・バーバー商会、キングドン宅、ピケ宅にそれぞれ配置
されたが、翌1865年1月19日には市場予定地の背後(現在の日本大通消防出張所あたり)に新築された
消防車庫の竣工をもってそこに移されるとともに、消防隊の規則も制定された。
● 最初の火の見
1864年2月26日の会合で、居留地80番横浜天主堂の鐘をファイア・アラームとして使用し、監視人を
置くことが提案され可決された。天主堂の鐘は、1863年10月5日の聖別といわれることから、その頃
トンガリ屋根の鐘楼が建設されたのであろう。
警報は、居留地内の火事では1撃、日本人街2撃、弁天のドイツ領事館一帯3撃、元町方面4撃ときめられ、
1864年4月23日の告示から実施された。天主堂の鐘楼を借りたとはいえ、消防火の見の最初になる。
ちなみに、居留地消防隊が自前で火の見櫓を建てるのは1871年(明治4年)のことになる。
● 最初の蒸気消防ポンプ車
1864年に居留地消防隊が購入した3台の消防ポンプ車はいずれも手動のものであった。
1866年の慶応大火災後、アメリカン・ファイア・カンパニーは、サンフランシスコ経由で
消防ポンプ車(ボランティア号)を取寄せ、1867年7月3日放水試験を行い、水平放水距離
150フィート、垂直距離70フィートの性能を示したが、これも手動ポンプであった。
1871年(明治4年)2月6日、ついにロンドンのシャンド・アンド・メーソン社製の蒸気消防
ポンプ車が横浜に到着し、2月15日海岸通りでデモストレーションが行われた。
ビクトリア火災保険会社が取寄せたもので「ビクトリア号」と名付けられ、1分間に400ガロン
の放水能力を有した。これが横浜における最初の蒸気消防ポンプ車である。
次いで、1874年には、居留地消防隊が同じシャンド・アンド・メーソン社製の蒸気消防ポンプ車
(リリーフ号)を導入して消防能力の増強を図った。リリーフ号の放水量は1分間に350ガロンであった。
ちなみに、ボランティア号は手動とはいえ250ガロンの能力を持っていた。
写真左上「明治14年頃の居留地消防隊」居留地238番の横浜ファイア・ブリゲード構内での記念写真
写真右下 手動ポンプ車「日本絵入商人録」(明治19年)より
横浜開港資料館編集「横浜もののはじめ考」より
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